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立川第六中学校校歌
ブログ
東日本大震災から10年を迎えて
昨日が東日本大震災から10年目の日でした。
本校では2時46分に起立黙祷を全校で実施して、冥福を祈るとともに、自身の生活に
この教訓を生かし更なる災害を防ごうと決意を新たにしました。
しかし、その道は簡単ではありません。
自宅に防災備蓄をしてあっても、定期的に点検をしたり、
訓練に参加したり、家族で打ち合わせをしたりということができていないと気づきました。
ここ数日間、当時のことを検証したり、振り返ったり、良かったことや改善が必要なことを確認したり、今の罹災者の状況を紹介したりする報道が多くありました。
いくつかを見ましたが、鵜住居地区の避難訓練の徹底度は改めて参考になりました。
私は当時、小学校の校長として赴任していた学校で6年生の保護者や児童と共にお別れ会をしていました。会場の体育館が崩れるかというほどの揺れ、窓の外の電柱や電線の波打つ姿、悲鳴など記憶に残っています。
校内には保護者と生徒が一緒にいたので揺れがおさまってから一緒に下校してもらいました。その後の余震で、避難所として開設された学校に再び戻ってくるご家庭もありました。
都合で保護者が参加できなかった児童が残りました。
都心から歩いて帰路につき、迎えに来てくださる保護者に引き渡すのに夜遅くまでかかりました。
帰宅するにも全ての交通機関が止まっていたので備え付けの自転車で12km漕いで深夜に帰りました。途中多くの方々が歩いて千葉方面に歩いている姿を見ました。
他の学校も地域の方に向けた避難所として開設したものの、帰宅困難者の立ち寄り場所としても利用もあり、備蓄が間に合わなかったという情報が流れてきました。
原子力発電所が水素爆発を起こした日、確か雨が降り、その中で帰宅する際に雨の放射線量が気になったのを覚えています。たまたま小学校の理科の教材で放射線量の計測計を何十台か借りてあったのでそれで計測してみました。その数値を今は覚えていませんが、単位やその危険度について自分に知識では対応できないことに気が付きました。知識の大切さです。
その後計画停電が実施され足立区も対象となり、何ヶ月か授業でも生活でも苦労したことを記憶しています。全く電源が失われた東北地方とは比べられませんが、ついたりつかなかったりという生活は、冷蔵庫や冷房など困ることばかりでした。
福島をはじめとする東北地方の方々の苦労はいまだに続き、この先もいつまで続くのか見通しま持てませんが、私たち東京に住む人々も大変な生活を強いられたことを忘れないでおかないとならないと思っています。
先の大戦を実体験された方はもう相当ご高齢となり、その話を聞く機会もなかなかありません。体験を受け継ぐことの大切さをこの10年で感じます。
10年というと現在の30歳前後の教員より若い教員は当時の学校の対応を知りません。
地域地域で何が大変だったのか違うと思うので、学校それぞれで語り継いでおく必要を改めて感じました。
各ご家庭でも、当時の話を語り継ぎ、津波てんでんことは内容は違いと思いますが、何に困るとか、どんな生活になるとか、どんな助け合いが助かったとか、伝えることが防災教育だと思います。
10年という区切り?なのか、特に量が増えた報道を見聞きして感じたことを今日は書かせてもらいました。
10年目の3.11の日の出

いつもながらの富士山

本校では2時46分に起立黙祷を全校で実施して、冥福を祈るとともに、自身の生活に
この教訓を生かし更なる災害を防ごうと決意を新たにしました。
しかし、その道は簡単ではありません。
自宅に防災備蓄をしてあっても、定期的に点検をしたり、
訓練に参加したり、家族で打ち合わせをしたりということができていないと気づきました。
ここ数日間、当時のことを検証したり、振り返ったり、良かったことや改善が必要なことを確認したり、今の罹災者の状況を紹介したりする報道が多くありました。
いくつかを見ましたが、鵜住居地区の避難訓練の徹底度は改めて参考になりました。
私は当時、小学校の校長として赴任していた学校で6年生の保護者や児童と共にお別れ会をしていました。会場の体育館が崩れるかというほどの揺れ、窓の外の電柱や電線の波打つ姿、悲鳴など記憶に残っています。
校内には保護者と生徒が一緒にいたので揺れがおさまってから一緒に下校してもらいました。その後の余震で、避難所として開設された学校に再び戻ってくるご家庭もありました。
都合で保護者が参加できなかった児童が残りました。
都心から歩いて帰路につき、迎えに来てくださる保護者に引き渡すのに夜遅くまでかかりました。
帰宅するにも全ての交通機関が止まっていたので備え付けの自転車で12km漕いで深夜に帰りました。途中多くの方々が歩いて千葉方面に歩いている姿を見ました。
他の学校も地域の方に向けた避難所として開設したものの、帰宅困難者の立ち寄り場所としても利用もあり、備蓄が間に合わなかったという情報が流れてきました。
原子力発電所が水素爆発を起こした日、確か雨が降り、その中で帰宅する際に雨の放射線量が気になったのを覚えています。たまたま小学校の理科の教材で放射線量の計測計を何十台か借りてあったのでそれで計測してみました。その数値を今は覚えていませんが、単位やその危険度について自分に知識では対応できないことに気が付きました。知識の大切さです。
その後計画停電が実施され足立区も対象となり、何ヶ月か授業でも生活でも苦労したことを記憶しています。全く電源が失われた東北地方とは比べられませんが、ついたりつかなかったりという生活は、冷蔵庫や冷房など困ることばかりでした。
福島をはじめとする東北地方の方々の苦労はいまだに続き、この先もいつまで続くのか見通しま持てませんが、私たち東京に住む人々も大変な生活を強いられたことを忘れないでおかないとならないと思っています。
先の大戦を実体験された方はもう相当ご高齢となり、その話を聞く機会もなかなかありません。体験を受け継ぐことの大切さをこの10年で感じます。
10年というと現在の30歳前後の教員より若い教員は当時の学校の対応を知りません。
地域地域で何が大変だったのか違うと思うので、学校それぞれで語り継いでおく必要を改めて感じました。
各ご家庭でも、当時の話を語り継ぎ、津波てんでんことは内容は違いと思いますが、何に困るとか、どんな生活になるとか、どんな助け合いが助かったとか、伝えることが防災教育だと思います。
10年という区切り?なのか、特に量が増えた報道を見聞きして感じたことを今日は書かせてもらいました。
10年目の3.11の日の出
いつもながらの富士山